研究

忘却能力を持つ動的記憶素子の構築人間の脳の動的な記憶忘却挙動に触発されて

ポイント
  • 制御された記憶・忘却機能を備えた,脳に類似した動的ハイドロゲル記憶素子の構築に成功。
  • この記憶素子は,重要でない情報を自発的に選別し,忘れることが出来る。
  • ソフトマターによる新しい非平衡インテリジェントデバイスとして期待。
概要

 北海道大学創成研究機構化学反応創成研究拠点(WPI-ICReDD)・大学院先端生命科学研究院・国際連携研究教育局の龔 剣萍(グン チェンピン)教授らの研究グループは,人間の脳に類似した動的な記憶・忘却機能を備えた素子を,脳と同様のソフトマター*1であるハイドロゲルによって構築しました。
 私たちの脳の記憶は動的*2であり,重要でない記憶を自発的に忘れる機能を備えています。記憶の忘却は悪いことに思えるかもしれませんが,脳は不要な情報を忘れることによって高い情報処理効率を得ていると考えられています。対照的に,ハードディスクなどの既存の人工記憶素子は静的であり,不要な記憶を自発的に選別し,忘れる機能は有していません。
 研究グループは,動的結合(イオン結合や水素結合など)を含むハイドロゲルを利用することで,重要でない情報を忘却する能力を備えた動的記憶素子を実現しました。これらのハイドロゲルは,熱による学習を通じて2次元画像情報を記憶することができます。こうして記憶された情報は,ある情報忘却時間が経過すると自発的に失われますが,この情報忘却時間は,人間の脳の場合と同じく,学習強度とともに増加させることが可能です。このような動的な記憶現象は,熱刺激後の冷却過程で形成される過渡的な構造フラストレーション*3に起因します。
 柔らかくて水を含むハイドロゲルを使って,脳のような記憶を忘れる機能が構築出来る概念を提案し,実現するのはこれが初めてです。 情報選別能を有する非平衡インテリジェントデバイス,一定時間後に書き込んだ情報が消去されるセキュリティペーパーなどとしての応用が期待されます。
 なお,本研究成果は,2020年7月28日(火)公開のProceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America (PNAS) 誌に掲載されました。

【背景】

 人間の脳は,柔らかくて湿った物質で出来ており,学習した内容を大量に記憶出来る優れた記憶素子です。脳の記憶能の特徴は,動的かつ非平衡的なプロセスにより,不必要な情報を自発的に忘れることが出来る点にあります。脳が情報を学習すると,脳の内部に細胞の構造が形成され,これが記憶となります。この細胞の構造は,時間とともに徐々に失われ(忘れられ)ます(図1)。記憶が失われるまでの時間は,学習時間や感情刺激が大きいほど長くなるため,よく用いる重要な情報は長時間記憶される一方,不要な情報はすぐに失われます。脳が記憶を失うのは,不要な情報やノイズを除去することで,情報を高効率に処理するためであるという説があります。
 一方で人類は,脳の代替を目指し,磁気テープ,フラッシュメモリなどの様々な人工記憶素子を創製してきました。このような既存の人工記憶素子は,硬くて乾いた固体材料から出来ており,電気や磁気などの刺激によって材料の2つの状態(0と1)を切り替えることによって情報の書き込み(記憶)を実現しています。ひとたび刺激が加われば,書き込まれた情報は安定して保持されます。これらの素子は正確かつ極めて長時間にわたり情報を記憶できますが,そのプロセスは静的であり,不要な情報を選別して自発的に忘却する能力はありません。

【原理】

 動的な記憶・忘却機能を達成するために,龔教授らは動的な構造を有するソフトマター,特に脳と同様に柔らかくて湿った物質であるハイドロゲルに着目しました。平衡状態にあるハイドロゲルにpHや温度変化などの刺激を与えると(学習),熱力学的環境の変化によりその状態が変化します(情報の書き込み)。一方で刺激を与えるのをやめると,従来の固体記憶素子とは異なり,ハイドロゲルは最初の状態に徐々に戻っていきます(書き込まれた情報の忘却)。このようにハイドロゲルは,従来の人工記憶素子とは異なり,情報を失う能力を持っている点で脳に近い性質を有すると言えます。
 このようなハイドロゲルの刺激応答プロセスを,実際に脳に類似した動的な記憶素子として利用するためには,以下のような条件が必要と考えられます。

  1. 記憶された情報を容易に読み出すことが出来ること。
  2. 情報の書き込みは速いが,情報の忘却は極めて遅いこと。
  3. 情報の忘却にかかる時間(忘却時間)は,刺激強度(学習強度)が大きいほど長くなること。

 龔教授らは上述の条件を満たすハイドロゲルを発見し,動的な記憶素子の構築に応用しました。水素結合やクーロン相互作用*4などの物理的相互作用を含むハイドロゲルは,熱刺激に反応してわずかに水を吸収して膨潤し,冷却すると水を放出して収縮します。龔教授らは,ある種のハイドロゲルにおいて,熱刺激を加えた後に急冷することで構造フラストレーションが生じることを発見しました。ハイドロゲルは通常透明ですが,このような構造フラストレーションが生じると不透明になります。つまり,本ゲルに部分的に熱刺激を加えた後に冷却すると,刺激を加えた場所だけが白く濁り,2次元画像情報として記憶されます(図1)。書き込まれた情報は,画像処理によって容易に読み出すことが出来ます。また,このようにして形成された構造フラストレーションは,長い時間をかけて緩和,消滅します。つまり,本材料は情報を長時間記憶することが可能であり,記憶素子としての使用が可能です。さらに,本材料における情報忘却時間は熱刺激の強さが大きいほど長く,学習強度の増大により記憶を強化出来ることもわかりました。

【研究成果】

 正電荷と負電荷を等量有し,内部にクーロン相互作用を持つハイドロゲルを用いて,人間の脳に類似した動的記憶素子が達成されました。図2は,本ハイドロゲルを部分的に加熱する(熱学習)ことによって,「文字(GEL)」,「傘」,「魚」,「小枝」の画像パターンを構造フラストレーションの形成により記憶させたものです。記憶された情報は,外部からの刺激なしに自発的に減衰し,やがて消滅します。熱学習後のハイドロゲルの情報忘却過程の一例を図3に示します。記憶された飛行機のパターンは,構造フラストレーションの解消とともに徐々に薄まっていき,25℃では4.5時間以内に消え,ゲル全体が完全に透明になります。
 記憶した情報が完全に消える情報忘却時間は,学習強度,つまり学習時間と学習温度に依存します。図4は,書き込み時間を変化させた情報の忘却プロセスを示しています。文字「G」,「E」,「L」の学習時間は,それぞれ26分,18分,12分です。「L」の文字は約3.0時間後に,「E」は約5.5時間後に,最後に「G」が約8.5時間後に消滅します。つまり,学習時間が長いほど情報忘却時間が長いということです。同様に,学習温度が高いほど情報忘却時間が長くなることもわかっています。このような,学習強度が低い情報を先に忘れるという現象は,不要な情報を忘れるという人間の脳の仕組みに類似しています。

【今後への期待】

 以上のように,不要な記憶を自発的に忘れる機能を備えた新規動的記憶素子の開発に成功しました。動的で学習強度に依存する本ハイドロゲルの情報保持能を活かし,自発的に情報の重要度の選別を行うインテリジェントデバイスの開発に繋がることが期待できます。また,書き込んだ情報が一定時間経過後に消滅することを利用し,セキュリティペーパーへの応用も可能です。さらに重要なことは,本研究が提案したソフトマターの非平衡プロセスに基づく機能発見は,生命現象に通じる概念であり,様々な非平衡機能材料の開発につながると期待しています。

論文情報

論文名: Hydrogels as dynamic memory with forgetting ability (忘却能力を持つハイドロゲル動的記憶素子の構築)

著者名: 余 承涛1,郭 宏磊2,崔 昆朋3,李 薛宇4,叶 亚楠4,黒川孝幸2,4,龔 剣萍2,3,4 

          (1北海道大学大学院生命科学院,2北海道大学大学院先端生命科学研究院,3北海道大学創
          成研究機構化学反応創成研究拠点(WPI-ICReDD), 4北海道大学国際連携研究教育局)

雑誌名:  Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of
            America (PNAS,総合科学誌)

DOI:  10.1073/pnas.2006842117

公表日:  2020年7月28日(火)午前4時

お問い合わせ先

北海道大学創成研究機構化学反応創成研究拠点(WPI-ICReDD)・大学院先端生命科学研究院
 教授  龔  剣萍(グン  チェンピン)
 TEL  011-706-9011     FAX  011-706-9011
 メール  gong[at]sci.hokudai.ac.jp
 URL  http://altair.sci.hokudai.ac.jp/g2/

配信元

北海道大学総務企画部広報課(〒060-0808 札幌市北区北8条西5丁目)
 TEL 011-706-2610      FAX 011-706-2092
 メール kouhou[at]jimu.hokudai.ac.jp

【参考図】

図1. 柔らかく湿った素材における動的な記憶/忘却行動の概念図。 (A)脳の記憶の仕組み(記憶の忘却を
   含む)(B)脳や柔らかな素材における,記憶の忘却曲線。学習時間は短いが,情報忘却時間は長
       い。(C)熱刺激に基づく動的記憶・忘却ハイドロゲルの設計原理。

図2. ハイドロゲルの熱学習によって記憶された様々な画像情報。

図3. ハイドロゲルの自発忘却プロセスを示す例。

図4. ハイドロゲルの自発的な逐次忘却プロセスを示す例。各文字の忘却時間は,その情報書き込み時間
    (熱学習時間)が長いほど大きくなる(‘‘G’’>‘‘E’’>‘‘L’’)。

【用語解説】

*1 ソフトマター…ハイドロゲルやゴム,液晶など柔らかい物質群のこと。金属やセラミックスなどの固
  体物質(ハードマター)にない固有な構造と機能を持つ。
*2 動的…動的とは,時間が経つと変化する性質のこと。静的とは,時間が経っても変化しない性質のこ
              と。
*3 構造フラストレーション…ここでは,材料が元の安定な状態に戻れず,エネルギー的に不安定な状態
  に置かれていることを指す。
*4 クーロン相互作用…プラスとマイナスの間に生じる引力などのように,電荷の間に生じる相互作用のこ
     と。